ここもまたたび

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gooブログから引っ越しました。元「雲南、見たり聞いたり感じたり」です。よろしくお願いします。

いざトルコ28 ヨーグルトは何語?

トルコの市場(ブルサ市)にて。ヨーグルトの容器には「Yoğurt」と印刷されている。


【トルコ語からヨーグルトに】

日本ではヨーグルトといえばブルガリア、最近ではギリシャも加わってあのあたりのイメージが強いが、ヨーグルトの語源はトルコ語だと言われている(※1)。トルコ語の「yoğurmak」(攪拌する)から「Yoğurt(ヨーウルト)」という名詞に変化。そこから英語の「yogurt(ヨーガート)」、日本ではヨーグルトと呼ばれることになった。

ちなみにブルガリア語では「Кисело мляко(キセロ・ムリャコ)」(酸っぱい乳)というので、ヨーグルトの語源でないことは確かだ。

 

【健康のために最上が最強】

1907年にロシアの微生物学者イリヤ・メチコニフ(1908年にノーベル生理学・医学賞受賞)が「ブルガリアで100歳以上の老人が多いのはヨーグルトを食べているから」と発表したことで世界中にヨーグルトが広まった。

日本での反応はこれを受けて、1917(大正6)年に広島に本社を置く「チチヤス」がはじめて「ヨーグルト」を発売(※3)。1950年には明治乳業が工場生産を開始。ここまでは砂糖や香料を加えて、ゼラチンなどで固めたものだった。

 革新的な転換となったのが1971年の「明治プレーンヨーグルト」(のちの「明治ブルガリアヨーグルト」)。甘くなく、ゼラチンなどで固めない本格的なプレーンヨーグルトだった。

 ところでガラス瓶に入れられた日本初のチチヤスヨーグルトの写真をよく見ると「チゝヤスヨーグルド」と印字されている(※4)。だが、そのキャプションは「チゝヤスヨーグルト」と書かれている。ド、と濁る意味は何なのだろう? 

 まずチチヤスヨーグルトの製品化の歴史過程を追ってブルガリアと細菌学の本場ドイツを調べてみたが、「ド」と濁る発音ではなかった。となると意図的か、まさかの誤記か? 意図的だとすると、2つの可能性を考えた。

まず一つ目。日本語だと「ヨーグルド」のほうが発音しやすいので、ヨーグルトの開発を主導したチチヤスの創業者の5男・真一氏が日本で製品を定着させるためにわざとそうした。

二つ目は、平安時代の乳製品から。チチヤスの創業者が仏教を深く信仰していたことから始まった「チチヤス」。その息子の真一氏がヨーグルト事業をはじめるにあたって「ヨーロッパのブルガリヤ地方では、昔からヨーグルトが不老長寿の食品として珍重されているそうだ。お釈迦さまだって醍醐は最上なりと説いておられる。」と発言したと、1977年週刊文春と掲載されている(※5)その平安時代に日本でも作られたらしい、なぞの乳製品「醍醐(だいご)」をヨーグルトと比定し、その上で濁音を含めることで発音を寄せたのだろうか? ご存じの方がいたら聞いてみたい。

 

≪参照≫

※1 研究社新英和中辞典「yogurt」の項に「【語源】トルコ語から」と書かれている。

(電子版https://ejje.weblio.jp/content/yogurt

※2トルコはヨーグルト発祥の国&消費量も世界一!料理や飲み物、ソースなど多彩 | 【ターキッシュエア&トラベル】 https://turkish.jp/blog/yogurt/

みんなのヨーグルトアカデミーhttps://yogurt-academy.com/bulgaria-trip-report-02/

※3沿革 | チチヤス株式会社https://www.chichiyasu.com/company/history

※4 向井 智香『ヨーグルトの本』(エムディエヌコーポレーション、2022年)

※5 チチヤス - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%81%E3%83%A4%E3%82%B9#cite_ref-W%E6%96%87%E6%98%A519820812_7-7

藤崎武男「乳製品一筋97年 チチヤス乳業の足跡」『週刊文春』1977年9月22日号、文藝春秋、130–135頁。

●次回は、トルコから外れて、閑話休題、私のヨーグルトとの最初の出会いの思い出についてです。

いざトルコ27 朝食会場のヨーグルト

【塩味の効いたヨーグルト】

バイキング方式の朝食会場にはヨーグルトもあった。ヨーグルト好きの娘はお玉ような大きなスプーンで、たっぷりととりわけ、そこに壺に入っていたはちみつを垂らして、元の席に着いた。そして、そのままいつもの通りに口に運ぼうとした。その刹那、私はなんだか異様な空気に気が付いた。そこにいた周囲の人々が娘を見つめて、皆一様に驚きととまどいの表情をうかべていたのだ。

それに気づかぬ娘は一口食べるなり、小首をかしげた。

写真左下にあるのが朝食会場のヨーグルト。この並びではせいぜいフルーツに添えたくなる位置なのだが。

「はちみつと全然合わない。しょっぱい。」

食後のデザートではなく、ヨーグルトのソースであった。

日本では味わえない方向性のために最初はびっくりしていたが、娘はすぐになじんで、周りの人々に倣(なら)ってきゅうりのサラダや肉製品にもたっぷりと添えてうれしそうに食べていた。私も次第になれていった。

雲南北部の山岳地帯のシャングリラでおもてなしにいただいた、バター茶を思い出した。日本人は乳製品に塩は、ちょっとびっくりする取り合わせだが、おそらく遊牧民族の間に脈々と受け継がれた味なのだろう。

ちなみにレシピは以下の通り。

ヨーグルトに塩、にんにく、レモン(またはライム)汁あとは、そのときどきのハーブ、ミントとかパセリなどを細かくして、よく混ぜる。少しのオリーブオイルをかけて風味を増すことも。

上記のほかにもトルコにはヨーグルトソースは、いろいろあった。たとえば刻みキュウリを入れるトルコ語ではジャジュク(Cacık)、ギリシャではザジキ(tzatziki)と呼ばれるソース。肉料理と相性が良い。冷製スープとしても食されている。ちなみにギリシャはかつてオスマン帝国領で双方の料理が影響しあっていて、語源が同じことがしばしばある。

 

いざトルコ26 ネコ、犬、城郭

【城郭内の散歩】

夜中のアザーンの後、また寝て、次に夜明けのアザーンで起こされたので、日の出の早朝を散歩することにした。

ホテルは石畳の静かな小道に面し、早朝のだいだい色の太陽がそこかしこを染めている。道に沿ってオスマン朝時代にはあったであろう、古びた城壁が聳え立ち、街をぐるりと囲う。おかげでホテルは高台にあるはずなのだが、ボスポラス海峡どころか海の近くかすらもわからない状態だった。

道々、手入れのよいネコに出会う。カメラを向けると例外なく、寄ってくる。つながれていない犬もたくさんいた。彼らの手入れもすごくいい。そして例外なく、警戒することもなく、じっとしている。ここらの犬猫は人に愛されることしか知らないらしい。

7時半。ペコペコのおなかをかかえて、ホテル1階の張り出しにある朝食会場へ。素材をそのまま並べたようなシンプルな料理が並ぶ。バイキングスタイルに並べれた大皿の数々は、まるでトルコタイルのように絵画的に並んでいて美しい。薄切りハムに薄切りトマトや薄切りきゅうり。パンもフランスパンを薄く切ったものが並んでいて、クセがなく、まあるい小麦の味がする。パプリカとトマトのスープも、何が調味料として入っているのかを食べながら分析できる味ではなく、素材を支える、控えめな何かがあるらしく、混然一体となった味が、ちょうどいい、やさしい、としかいいようのないおいしさ。調味料の使い方が絶妙なのだろうか? 

このトルコ料理の味の調和の絶妙なことといったら。一つの味が突出していることはなく、脂っこさもほぼゼロ。そのためなのかアメリカ人には不評らしい。繊細さと野菜の豊富さにおいても、日本料理なら、まちがいなくトリコになる。

いざトルコ25 夜暮れてアザーン

【街はずれのしずかな夜・・】

夕食とデザートでほどよくおなかを満たし、きた道を戻る。とっぷりと日は暮れ、スルタンアフメット広場に点在するドイツの泉、エジプトのオベリスク、蛇の柱などがライトアップされ、より一層美しい陰影を刻んでいる。これらを見つつ、まっすぐ進むと、道は行き止る。そこは世界遺産の一角にはふさわしくない工事中とおぼしき金属の味気ない板塀が道をふさいでいた(このふさがれていた地区は4年後に再訪すると驚くべき変化を遂げていた。それはまた別に機会に。)そこから、鎌状に丸く下がっていく古びた石畳の道を降りていく坂道には、みやげ物屋が連なり、店の蛍光灯が青ガラスの目玉の飾り物ナザールボジュや小さなカーペットの飾り物を照らしている。人通りはほとんどないが、治安はいい。夜は深く澄んだ群青色で、ボスポラス海峡からの海風が心地よかった。こうして宿泊先のタシュクルホテルに戻った。

 着いて数時間とは思えないほど。いろいろと物珍しいものが続いて長い一日だった。

 

とても静か。部屋のカーテンが寸足らずだろうと、部屋が1階で普通に人が通る石畳の道路に面していようと、あっという間に眠りに落ちた。

 このまま朝までぐっすり眠るのが私のルーティーンなのだが、あにはからんや朝までに2度、起こされることになった。時差ぼけではなく、夜中に朗々と流れるアザーン(トルコ語:EZAN)のためだ。

 一日5回、決まった時間にイスラム教徒は礼拝するのだが、その礼拝への呼びかけが夜中だろうと容赦なく拡声器を通して流れてくる。男性のハリをある朗誦で歌うような朗誦だ。時間は日の出と日の入りを基準に設定されているので、日々、変動があり、場所によっても違うらしいが、私の眠りを妨げたのは真夜中(イスラム的には就寝前の設定らしいが、私は寝ていた)と明け方前のものだ。

隣の部屋の人は、スカーフを頭にかぶっている5人以上のご家族連れだったのだが、アザーンが流れるたびにごそごそと起き上がってはなにやら礼拝する雰囲気が薄い壁を通して伝わってくる。祈りは効率ではかるものではないのことは頭ではわかるのだが、これが日常というのは何とも不思議。寝不足にはならないのだろうか? 小さいお子さんはどうしている? と思って調べると、子供のうちは自由らしい。とはいえ、やがては義務になるわけだ。夜中に起きてしまう年かさの人が決めた習慣なのだろうか?

フィリピンのセブ島でもこのアザーンは拡声器に乗って流れてきていたが、日中だけしか、私のいたホテルには聞こえてこなかった。厳粛さが違うのか? モスクの密度が違うのか?

タシュクルホテル前は、旧市街の崩れかけた城壁がぐるりと回っている。通り抜けるような道は通じていないため、ふだんは人通りはほぼ、ここに住む人だけという静けさ。

いざトルコ24 トルコアイス ドンドゥルマのふかいわけ5

【英雄的な街】

カフラマンはトルコ語で「英雄的」という意味だ。1920年1月21日(いろいろな突発事案が重層的に起きているので始まりの日にちは1月20日、2月10日、2月11日と書き手によって変わる)、マラシュを占拠していたフランス軍と(3年後にトルコ共和国初代大統領になる)ムスタファ・ケマル・アタチュルク率いるトルコ国民軍が戦闘をはじめ、フランス軍を撤退に追い込んだ。欧米に対する最初の、主要な勝利だった。このときトルコ国民議会から都市ではじめて独立勲章を授与された。

それから時がたち、1973年、トルコ大国民議会の決議で「マラシュ」から「カフラマンマラシュ」に改称された。トルコ建国50周年にあたるためとして、と唐突に決議されたのだ。当時、議会が小党乱立などによって収拾がつかないほどの混乱に陥った時期だったことも関係しているようだ。

このマラシュの戦いは、トルコ独立にとって重要な起点だったのだが、負の歴史もおっている。アルメリア人虐殺でも知られていて、その内容は調べるほどに難題だ。この都市を顕彰するということは、なにかに因縁をつける、ということになってしまうともみえる。

 

【地政学的に重要】

ここはマムルーク朝では北の重要な国境地帯となるなど時代ごとに区画が変わり続けている。もしかすると文化的にはシリアのほうが親和性があるのかもしれない。そもそもオスマン帝国時代まではどちらに属するのかなど考える必要も、民族や宗教の区別も、おおらかだった。税金さえ納めればその国に包摂されることができる仕組みだったのは世界史の教科書にも書かれているほどだ(※)。

ところが近代以降、欧米が進出し、政治的緊張が高まると、何度か、対象を変えた虐殺が繰り返される地となってしまった。ついには1978年12月に起こったトルコ民族主義グループによるマラシュの大虐殺が、トルコ政府が戒厳令を出すきっかけとなり、最終的に1980年の現在にもつながる軍事クーデターの起点となった。近年も不安定な事件未満の状況は続いている。

 

あまーいトルコアイスの街として有名だし、そのための博物館も街中にあるというし、とても行ってみたい場所だ。だが、ただあまさを堪能するだけではすまないかもしれない。トルコの歴史は、少し掘り下げようとするとヤケドしそうなほど複雑なことを実感。

ともあれ、「MADO」の「MA」が「KA」に変更されなくてよかった。

                               (この回おわり)

※ズィンミー制度:オスマン帝国では、支配下地域の異教徒に納税と引き換えに信仰の自由を認め、宗教ごとの自治を許した。(最新世界史図説タペストリー/帝国書院より)

写真はイスタンブール大学の門。トルコの国旗が翻っている。ここではしばしばエルドアン大統領が訪れ、スピーチ風景がニュースになる場所でもある。(2019年9月撮影)

いざトルコ23 トルコアイス ドンドゥルマのふかいわけ4

【MADOの「MA」は】

「MADO」の「MA」にあたるマラシュという地名は1973年2月7日に「カフラマンマラシュ(Kahramanmaraş )」と改名された。場所は地図をみるとトルコ南東部のシリア国境付近だ。

オスマン帝国ではマラシュはアレッポ州に属していた。アレッポと聞くと「アレッポの石鹸」? ならシリアでは、とつい思ってしまうのだが、オスマン帝国はその地域全部を押さえていたのだ。第一次世界大戦の終結時にセーブル条約(1920年8月10日締結)によってオスマン帝国からフランスが実質統治していた新設国家シリアの側に所属が定められたのだが、マラシュの戦いを端緒としたトルコ独立戦争の結果、アレッポの大半はトルコが併合することとなった。

しかし、なぜ、これほど所属地域が変わるのだろう。じっくりと地形図をみる。するとシリアからバグダッドへと向かう平地の喉元にあたっていて、そこから山が立ち上がっている。標高568メートルに位置するマラシュを過ぎるとアナトリア高原に入る。つまり昔から西は黒海と地中海にはさまれた広大なアナトリア高原とメソポタミア文明のバグダッドへと続く交通の中継地で地政学的にとても重要なへり(辺境/マージナル)に当たる場所だったといえる。

また昔から大地震の街でもあり、2023年のトルコ・シリア地震では震源地でもあって、大きな被害も受けている。

 

しっかり、きっちりもっちりのMADOのアイス。街歩きに疲れるとつい、立ち寄ってしまう

いざトルコ22 トルコアイス ドンドゥルマのふかいわけ3

【ウズベキスタンのMADO】

 というわけで、MADOは世界中に店舗があると前回書いたが、サレップの輸出は禁止されているのでトルコ以外ではサレップを使うことができない。おそらく他のものになっているはずだ。ウズベキスタンのMADOで娘が食したところ、あっさりとした味わいだったそうだ。といってもハーゲンダッツのミルク味よりは濃い、とのこと。

「サレップを使っていないとは知らなかったけど、モチモチ感は変わらなかったよ」

といっていた。

 モチモチとした感触をそろえるのはMADOにとっても重要なのかもしれない。日本のコンビニでたまに売られるトルコ風アイスも当然、サレップは使われてはいない。

ウズベキスタンのMADOのアイス

(20206年5月 筆者の娘による撮影)